六文銭記 07 風雲急

文聞亭笑一

先週号で真田の情報スピードの速さについて私の推論を書きました。

それに対して読者の方から「池波正太郎の真田太平記では、京の真田屋敷が頻繁に登場する。真真田は京に情報拠点を置いていたのではないか」というご意見をいただきました。

それは「真田の…」ではなく、信州の馬商人たちの拠点だと思います。信長は大の馬好きで、天覧馬揃えなどを挙行しています。全国から博労達が集まり、巨大な馬市が開かれていたでしょう。その中に、信州・海野の博労がいて当然で、拠点もあったと思いますが、「京の真田屋敷」とは言えないと思います。・・・が、その中に真田の諜報要員がいたのは間違いないでしょう。

真田屋敷ができるのは秀吉に臣従してからでしょう。 さて、

天正壬午の乱・北関東版の幕が切って落とされます。関西では信長の跡目争い、覇権争いの戦ですが、旧武田領では織田の威圧に逼塞していた勢力が一斉に失地回復、あわよくば領土拡大に動きます。その先陣を切ったのは小田原・北条でした。

北条氏については注釈を加えておきます。鎌倉幕府を牛耳った北条時政・政子の北条氏の末裔と誤解する人が意外に多いのですが、全く関係ありません。歴史学上は鎌倉北条を「前北条」と呼び小田原北条を「後北条」と呼びます。後北条の創業者は伊勢新九郎。室町幕府の将軍執事であった伊勢家の傍流で鞍造りの名人として名を馳せた伊勢家の傍流の人物です。

たまたま、新九郎の在所の娘が駿河今川の当主に気に入られ、今川義元を産みます。その娘に頼まれて駿河に下り、皇太子付侍従長のような役割から混乱に乗じて伊豆との国境の支店長になり、更には伊豆を攻略して支社長になります。更には相模会社の混乱に乗じて会社を乗っ取り、今川から独立して、相模会社の社長になってしました。後北条初代・北条早雲です。

初代早雲が収めたのは、小田原にコンパスの支点を置いて平塚・秦野などを描く線です。二代目はコンパスを広げて鎌倉までの距離で円を描きます。三代目氏康が傑物で、コンパスは千葉辺りまで広がります。

今回の物語に登場する隠居の氏政は4代目、コンパスの広がりは小さかったのですが、三代目のやり残しを潰して領域を広げます。後北条の基本的政策は拡大主義ですね。

さて、五代目の氏直。祖父、父を越えなくてはいけません。これってかなりの重圧だと思います。トヨタ3代目の現社長、よくやっていますねぇ。「売り家と 唐様で書く 三代目」などと言われる通り、組織を三代保つのは大変なことだと思います。その氏直が、父の出来なかったコンパスを広げるチャンスがやってきました。上州はおろか、信州まで射程距離です。

神流川の戦

北条氏直の軍勢は、一旦は織田に寝返った北武蔵(埼玉県)や南上野(群馬)の軍勢を吸収しつつ北上します。再雇用された寝返り組は「本領安堵の条件」に手柄が求められていますから、必死です。進むしかありません。

神流川というのは群馬県の南部、埼玉県との県境辺りを流れて藤岡で利根川に合流する中規模の河川ですが、この中流で滝川軍と北条軍が激突します。

滝川軍は織田信長の鉄砲部隊の主力です。圧倒的火力を持っています。

一方の北条軍は寝返り者たちが最前線に立ち、玉砕してでも「本領安堵」を勝ち取りたいという必死の軍勢です。いわば人間の盾でしょうか。日露戦争の203高地の肉弾突撃、太平洋戦争での「玉砕」の原点を見るような部隊です。

当然の帰結ですが、最初は滝川軍優勢です。突撃部隊は死人の山を築きます。

が、圧倒的人数の差は、滝川陣にまで突入してしまいます。そうなれば、鉄砲の威力は無くなります。滝川一益の軍は203高地のロシア軍と同様に壊滅し、逃げ出します。

こういう体験が、203高地の乃木将軍、太平洋戦争の大本営に引き継がれたのでしょう。

攻める側にとっても、守る側にも人海戦術というものほど怖いものはありません。デモ、座り込みもこの延長線上の戦術です。犠牲者が出て当然の戦術です。これは戦術として下の下ですね。

アラブではISを名乗る勢力が住民を人質に取って玉砕戦術を取っています。人間魚雷、特攻隊の真似をしています。絶対にやってはいけない戦術、戦法です。過激なデモ、座り込み…これまたそれに繋がる戦術です。賛成しません。

神流川の合戦に真田軍は出動していません。

上杉軍が三国峠を越えて侵入してくる…というニセ情報をばらまいて、北方守備にまわります。要するに地理に不案内な滝川一益を騙して勢力を温存し、一益に隙あらば岩櫃、沼田を取り返してしまおうという作戦です。

真田は表裏比(ひ)興(きょう)な者である(秀吉)

後に秀吉にこう評価された最大の事実は、この戦いの時の動きでしょうね。

滝川部隊は、北条軍団の人海戦術にやられて大敗北、ほうほうの態で逃げ帰ります。

そして、真田の嘘に気づきます。滝川一党はその後の、秀吉との賤ヶ岳の合戦で敗れますが、生き残りの家臣たちは秀吉の傘下に組み入れられて生き残ります。滝川一益の軍団は、鉄砲、情報などの当時の先端を行く技術力の高い集団だったのです。

真田の悪評は、彼ら神流川の敗残兵を通じて秀吉の耳に入っていたことでしょう。

先週に引き続き、もう一度この地図です。

図中の① 昌幸は滝川一益の留守を狙って、一気に岩櫃、沼田を取り返します。

良く言えば「機を観るに敏」悪く言えば「空き巣狙い」ですねぇ。どちらの立場に立つかで善玉にも悪玉にもなります。タバコがそうでしょう。タバコ吸いに肥満型はいません。糖尿病患者もいません。ダイエット効果抜群です。

一方で、煙をまき散らします。ポイ捨てをします。そして、呼吸器系の病気になります。善玉、悪玉に絶対基準はありません。世の中全ての事象は相対評価で、どちらの意見が多数派になるかで決まります。それが民主主義というものです。

「真田は卑怯だ」と言っていた秀吉が、後に北条との開戦理由に困っていた時に信繁(幸村)の提案「真田にお任せください」で、北条退治、伊達退治、織田信雄退治までできました。毒と薬は紙一重なのです。

清須会議

畿内の動きは急です。山﨑の合戦で勝利した秀吉は、一気に信長の後継者となるべく縦横の働きを開始します。その参謀を務めたのが黒田官兵衛で、一昨年の大河ドラマの一番盛り上がった所でしたよね。いわゆる根回し、調略が縦横に飛び交っていました。

織田の軍団は6軍に分かれて各方面を担当していました。中国秀吉、四国丹羽、北陸柴田、関東滝川、東海家康、畿内明智です。このうち明智は討伐されました。徳川家康は客将ですから、織田家の相続問題には除外されます。残る4人のうち、滝川は清州に戻るどころではありません。信濃の山中で各種の抵抗にあって足止めされています。

それが秀吉の狙いで、柴田と滝川が手を組むのは明白でしたから結論を急ぎました。秀吉は信長の孫の三法師を担ぎます。柴田は信長の3男・信孝を担ぎます。

丹羽はどちら就かずの日和見で結論が出ないのは読み筋です。秀吉は弔い合戦の功績者として池田勝入を臨時に重役に指名し、2:1で押し切る戦術に出ます。

まぁ、ここら辺りは映画「清須会議」が面白おかしく演出していました」いずれにせよ、滝川一益にとって会議に間に合わなかったのは痛恨の極みでしょうね。

今週の大河は滝川の信州脱出を「真田の人質問題」として演出するようです。新説ですね。

上杉工作

真田昌幸は上杉陣営に就くことも考えました。これは上田の隣の海津城主・春日(高坂)信達が上杉について織田方の森長可を追い出す動きをしていたからで、上杉軍が海津城まで進軍して来たら独力では支えきれないと判断したのでしょう。

事実、上杉は6月6日には川中島へ、海津城からさらに進んで深志、安曇まで進軍して24日には深志城にいた木曽義昌を追い出します。前のページの図②の動きです。木曽義昌に代わり、越後で匿っていた旧主・小笠原長時の弟・貞種が、小笠原時代の旧臣を糾合して城主になります。

この動きを支えたのが昌幸の弟・信伊でした。調略つまり外交の才は兄以上だったようです。戦闘は殆どなしに信濃の半分を手に入れてしまいました。勿論、この動きの背後で、昌幸からの「上杉帰属のススメ」の密書が、信濃の国人衆に次々と届けられています。

信長が死んだのが6月2日です。それが真田に伝わったのが4日ころ、上杉が信濃侵攻を始めるのが6日、木曽義昌が深志を捨てたのが20日ころ、北条と滝川が神流川で戦うのが24日、ともかく目まぐるしくて上杉、北条、徳川の三者の動きを整理するだけで頭の中がパンクしそうです。物語の流れを楽しむには3者の動きを同時進行させず、個別に追いかけた方が悧巧のようで、小説家、脚本家の先生方は皆そうしています。

これを時系列で俯瞰的に捉えたい…というのが文聞亭の欲の深い所です。

実を言えば、私のご先祖様・市川新十郎もこの動きの渦中にいたはずで、どう対応していたのか・・・を推理してみたいからです。多分、この時点では真田信伊の説得に応じて上杉方に靡き、深志城から木曽勢を追い出す動きをしていたのでしょう。

           (次号に続く)