海人の夢 第49回 清盛炎上

文聞亭笑一

中央政権の正当性に人々が疑問を持ち、天皇家が発する院宣、勅書などの信頼感が失われると、力対力の対決になってきます。平家は源氏追討の院宣を持つ正規軍、官軍なのですが、各地で蜂起した源氏方は、その権威を全く認めません。「賊軍と呼ばれようと、我らが正しい」と開き直っています。現在シリアで起きている内戦のようなもので、一方は旧体制の正当性を主張しますが、もう一方は「民の声」の正当性を主張します。「勝てば官軍」という言葉の通り、政治不信の世の中では、勝ち残るしか正義はなくなります。

頼朝の蜂起に呼応して、各地で反平家勢力が蜂起します。清盛にとって意外だったのは土佐の河野水軍の寝返り、そして熊野水軍の寝返りと続いたことでしょう。絶対的自信を持っていた海軍にひびが入ってしまったのです。いずれも平家水軍によって鎮圧されますが、反乱軍は逃げただけで壊滅したわけではありません。

それやこれやで、平家の軍勢は大忙しです。モグラ叩きゲームで、モグラの数が増え、日本全国に広がってしまいました。大軍を一箇所に集中することが出来ません。こうなると…苦しいですね。

現在進行中の総選挙も、政治不信が極限に達した結果の戦国です。勝ち残ったものが正義と、政治家の先生方は東奔西走、声をからします。

79、この頃から清盛は、急に疲れを覚えるようになった。三日のうち一日は臥所(ふしど)に入ったまま、起きる元気さえ湧いてこない。皆は心配して祈祷をするのだが
「わしに祈祷は要らぬ。わしは重衡に命じ、南都の寺を焼いた。すなわち仏敵のわしに、祈祷など効き目のあるはずがない」その声も、平生の清盛と違って、力がない。

清盛の病気が何だったのか? 異常な発熱からマラリアに罹ったのではないかと言われていましたが、どうもそうではなさそうです。マラリアは日本脳炎同様に、蚊が媒介する伝染病ですが、周辺に同様な患者がいないのと、それに発病したのが冬でした。それもあって、最近では、急性髄膜炎ではないかと言われています。

ただ、平家物語の作者が「大仏を焼いた仏罰」であることを強調するために、かなり大げさに発熱症状を表現したと思われます。「大仏の祟(たた)りじゃ」と言いたかったのでしょう。平家物語は歴史書である反面、仏教的無常観を伝えるための庶民向け教本でもあります。後に、鎌倉仏教が花開き、禅宗の栄西、道元、浄土宗の法然、親鸞、そして法華経の日蓮が出てきます。仏教が復興し、それぞれの宗派が拡大していく土俵作りの役目を果たしたのが「平家物語」と言えるのではないでしょうか。

その意味でも、仏教の敵清盛は悪党でなくてはなりません。(笑)

天皇家をないがしろにし、仏教をないがしろにし、我欲に走った我利我利亡者でしょう。

これが、鎌倉から現代まで、一貫して日本人の心に残る清盛像ですね。悪党がいなければ、為政者は光りません。英雄も影が薄くなります。

現代にも悪党に擬せられる人がいますねぇ。なんとかいう蝦蟇の油売り。豪腕と言うのは、本当は褒め言葉なのですが…、あの人の場合は嫌われる材料ですね。

80、「それが本当の公卿たちのお姿なのだ。あるときは清盛の威光を薄めようと、陰謀を企て、それが破れると、次はたちまちこの清盛の機嫌を損ねまいと心を砕く。いずれも、わが身大切にて、天下のことを一つも考えておられぬ」

「公卿」のところを「官僚」に置き換え、「清盛」のところを「大臣」に置き換えてみると、なぜか苦笑いとともに、納得してしまいます。それが面白くないと言うので、わがままオバサンは、内示済みの大学認可を取り消して、大臣の威光を見せようとしたのでしょうが、時代錯誤でしたねぇ。今は、清盛の時代ではありません。

世を挙げて官僚バッシングの時代ですが、末端の現場でマジメにやっているノンキャリアの役人たちは、実に良く働いています。が、やはり入省後の教育が悪いんでしょうね。キャリアを積むごとに、民間や利用者を見下ろす態度に変わってきます。選ばれた人…という意識が強くなるようで、公家的になってきますね。

まぁ、このことは民間大企業の本社スタッフにも共通します。現場を見ようともせず、理屈だけで物事を進めようとしますね。「大企業病」と言う言葉を広めたのは、オムロンの創業者、立石一真ですが、「中央官庁病」を退治すべく、維新党やみんな党が拡声器で吠え立てています。維新の処方箋は複式簿記、みんな党の処方箋は何でしょうかねぇ。教育のやり直しには、役人たちの知らない新しい手法を持ち込まないと、決して前に進みません。清盛の使った「海外通商、通貨」と言う道具が、平安貴族を破壊、再教育したのです。

引用したくだりは、大宰府に流されていた前関白の藤原基房が許されて、清盛のところに挨拶に来たときのものですが、清盛の痛烈な皮肉です。

わが身大切にて、天下のことを一つも考えておらぬ のが官僚ならば、わが社大切にて、顧客のことを一つも考えておらぬのが企業かもしれませんね。貧すれば鈍すです。

81、「わしは天下をこの掌(てのひら)に握って以来23年、栄華は既に孫にまで及んだ。しかし、死ということは何人(なんびと)にもあるものゆえ、いまさら驚きはせぬ。悲しみもせぬ。但し、最後に思い残すのは、頼朝の首級(しるし)をこの目で見ることが叶わなんだことぞ。わしが死して後は追善の営みなど無用にせよ。かまえて頼朝の首を斬って後、わが墓に供え、初めて法事を営むが良い」

これが、清盛の遺言と言われているくだりです。頼朝の首に執着した…とありますが、思い通りいかない戦況にイライラが溜まり、「何とかしろ!」と言う焦りと、「やるだけやった」という満足感が、死の床に、交互に去来していたのだろうと思います。

先日聞いた講演で「ありがとう…といって死ねるのが、最も幸福な人生だ」といっていましたが、心残りを引きずった清盛は、少々気の毒な気もします。

戦時下における指導者の死去は、前線にいる将兵たちに不安を広げます。「喪を伏せよ」というのは当然の指示で、後の武田信玄、豊臣秀吉などもそうしています。現代の北朝鮮でもそうでしたよね。しかし、すぐにばれるのが秘密です。

82、義仲の軍には智将と呼ばれる樋口兼光がおり、一策を立てた。
牛5百頭ほどを集め、角に松明を付け、夜の更けるのを待ってから、その松明に火を放った。そして太鼓を打ち、法螺を吹き、5百頭の牛を一時に平家の陣営に追い入れた。倶(く)利(り)伽羅(から)峠(とうげ)は平家軍兵士の赤い血で真っ赤に染まった。

頼朝は関東に腰をすえて組織の内部固めに精力をつぎ込んでいますが、功を焦る行家、義仲は上洛戦に向けて動きます。行家は尾張の戦いで知盛に大敗し、逃げ帰ってきましたが、義仲は平家勢力が手薄な越後から越中、能登へと兵を進めます。

義仲の軍の中核は信濃兵です。当時の一般的な武器は騎馬武者が弓矢、兵卒は長刀でしたが、信濃兵は兵卒までが半弓を持っています。半弓というのは弦の長さの短い弓で、遠くまで飛ばす威力がない代りに速射機能があります。敵の鎧を射抜くのではなく、顔、脚などの露出部分を狙って、間断なく矢を放ちます。さらに、現代のボーガンに似た工夫をしたものもあったようで、接近戦で顔や首を狙われたら、防ぎようがありません。兵卒は「やーやー我こそは…」などという悠長なことはやらないのです。

更に、義仲軍の強みは馬です。平安期、信濃には牧が随所にありました。馬、牛などの牧畜業が盛んだったんですねぇ。それに熊、鹿、猪、狼などの害獣もたくさんいましたから、牧畜と狩猟はお手の物です。馬は、その頭数だけでも戦車並みの威力です。

樋口兼光が使ったのは、中国古来の火牛の計です。これも、動物の扱いに熟知していないと出来ません。平家軍にとって倶利伽羅峠の戦いは想定外ばかりでした。地震と津波で電源を喪失した福島第一発電所…まさに倶利伽羅の平氏でしたね。

このあと、義仲軍は一気に都に攻め上ります。平家は都を捨てて西に走るしかありませんでした。その後、義仲と後白河が不和になり、東国から攻め上ってきた義経が義仲を討ちます。義経は更に兵を進め、鵯(ひよどり)越(ごえ)の逆落とし、屋島の奇襲、壇ノ浦の決戦へと縦横に活躍します。義経の基本戦術は奇襲、奇略でしたが、それは海人族や都人にとっての奇襲、奇略であって、山岳民、狩猟民にとっては当たり前の戦術です。

私たちも、規制緩和や技術革新、経済の国際化などで、想定外の現象はあまた経験してきていますが、その都度、柔軟に対応してきて、現在があります。原発が爆発したのも、トンネルの天井が崩落してきたのも、みんな想定外ですが、だからといって天が落ちてくると杞憂をしているわけにもいきません。困難は乗り越えるしかありません。

海人の夢、一年間のお付き合い、ありがとうございました。  <了>