海人の夢 00  まえがき1

日本人にとって、海とは故郷であり、未来でもあるのではないでしょうか。

文明の発達により、陸と陸の間は、航空機によって移動できるようになりました。情報も通信衛星を経由して世界の隅々まで、瞬時に交換できるようになりました。が、「海外」という言葉は消えそうにありません。

陸地と陸地を隔てる空間、海は依然として人間の居住空間とはなりえていません。日本と外国は、海を隔てて内と外が明確に仕切られています。日本の国土は、沖縄県と島々を除いて、その国土の大半が橋とトンネルでつながりました。陸続きになりました。山と川に隔てられていた郷土感覚も徐々に薄らぎ、日本という国が単一化して故郷になってきています。企業の海外進出は留まるところなく拡大して、更に発展を続けます。

冒頭に、「海が日本人の故郷」と書きましたが、太古の昔から、この国に住む人々は、海と一体化して生活してきたのです。季節の変化は地球の公転によるものですが、気候の変化は海流の変化と、海水温に上下によってもたらされます。季節と気候の変化に応じて稲を育て、魚や獲物を捕らえ、生き延びてきた民族です。文化や技術も、その殆どが海を渡ってやってきました。自らの英知で何かを生み出すというよりも、海の向こうからやってきた新しい知識を吸収、昇華し、智恵と工夫で使いこなしてきたのが、この国の文化です。

冒頭から堅い話になりました。来年のNHK大河ドラマは「清盛」と題して、平安末期の公家支配から、鎌倉幕府に至る武士階級の隆興を描きます。政権が一部貴族から、下人とされていた者たちに動いた、一種の革命ですね。

平清盛はその革命を主導した、中心人物でもあります。

今、国内では、政権交代を掲げた民主党が、その理想として掲げたものと、現実との矛盾に直面して、迷走を続けていますが、政権交代とはどのようにすべきか、それを歴史の中から学び取るには格好の材料になるかもしれません。

実は…大河ドラマ追っかけシリーズの題名を、なんとするか…、悩んでおりました。

平清盛という人物を一言で言い現せばなんと言うべきか。しばらく悩みました。

そこへ出てきたのが「海」というキーワードです。

清盛は京都に生まれますが、青春時代は海を舞台に育ちます。そして、権力の座についても、常に目は海の外に向かっていました。福原の津(神戸)を拠点に、世界の海に乗り出していく夢を見続けた人です。

自らが所属する平氏という武装集団は、海岸線に本拠を持つ、いわば海人族を束ね、その勢力を培ってきた氏族です。とりわけ清盛には海人の血が色濃く出たのではないでしょうか。日本人は混血によって出来上がった民族ですが、遺伝子の伝わり方はさまざまです。海人族の血を濃厚に受け取った人物は、清盛の後に歴史に登場するのは幕末の坂本龍馬でしょうか。国内より海外に目を向けた人物は稀有でした。

企業戦略などを検討する際に、よく使われる言葉として「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という命題を掲げます。温故知新、古きを訪ね新しきを知るということですが、さて、日本人はどこから来て、どこへ行くのでしょうか。

私などは、「海から来て、海に向かう」のが、日本人の日本人らしい生き方だと思っていますから、清盛、龍馬の向かった方向、つまり、通商立国に舵を取ります。それというのも、この国の成り立ち、日本人の祖先は海から来たと思っているからでしょうね。

太古の昔、寒冷化の時代に、日本列島は周辺の海が凍り、間宮海峡から津軽海峡の辺りまでは氷で繋がっていたといわれています。この時代に北方アジアから、温暖の地を求めて、狩猟と菜食を中心とする民族がこの島に渡ってきたといわれています。彼らは獣を追い、木の実を採集して、南へ南へと移住していきます。東北から関東、中部山岳地帯を中心に彼らの住居を構えます。主食は獣の肉と木の実ですから、森林地帯が生活の場になります。

彼らを、便宜上、日本原人と呼びましょうか。

数千年が経過し、地球は徐々に温暖化していきます。温暖化を通り過ぎて北極海の氷がすべて解け、海面が上昇し、現在よりも10m近く上がった時代があります。その頃、南方の珊瑚礁の島に住んでいた人々は国土を失います。船に乗り、近くの陸地を求めてさまよいますが、フィリピン、台湾を経て沖縄にたどり着き、更に北上して九州、四国、本州に到達した者もあったでしょう。今よりも気温が5℃ほど高かったといいますから、北へ、北へと逃れたものと思います。

が、そこは日本原人の縄張りです。勝手に上陸して集落などを作れば、原人に攻撃されてしまいます。漁労を主体にする海人族に比べたら、狩猟で生きている原人のほうが遥かに攻撃力で勝ります。海人族は居住権を認めてもらうために、物々交換による融和を図ります。海産物はもとより、彼らが持ち込んだ縄文式土器が最高の交易品でした。原人たちにとって生か、焼くかしかなかった調理法に、煮るという新技術が導入されます。

水も、竹筒などの容器から、土器によって大量に蓄えが利くようになりました。まさに文明開化です。原人と渡来者の海人は、更に、婚姻によって融和が進みます。百年もすれば、子孫は混血人ばかりになりますが、これが縄文人ではないかといわれています。縄文遺跡は中部から東北に偏っていますが、それは縄文文化が長く続いたためと思われます。西日本は、その後の弥生文化に淘汰されていきますが、北ほど、縄文文化が長く続きました。

更に数千年、大陸では文化が花開きます。国家ができ、民族、国家同士が争い、より大きな王国へと淘汰が進みます。中華圏は華北に起こり、南へと侵略を進めます。雲南、福建、越南(ベトナム)などは、先住民族が追い出され、逃げ出し、海を渡ります。南シナ海、東シナ海を越えて九州西部にたどり着き、この地で縄文人たちに遭遇します。彼らは、弱者ではありますが、何よりの強みは稲作という保存食を携えていたことです。これには縄文人たちが瞠目します。我先に渡来者を迎え、技術の習得に掛かります。

稲作は九州西部に始まり、徐々に列島を東に向かい、そして北上していきます。稲作に付随して、神事も広がっていきます。ここでも日本的融合が起こりました。血の融合だけではなく、宗教まで融合していってしまいます。南方から入ってきた稲作に付随する神事と、従来からある自然信仰が融和して、古事記に語られるような神話のいくつかが誕生していきました。インドネシアに伝わる「賢い鹿が鰐の背を渡って海を渡る話」が、「賢い兎と騙される鰐鮫」に替わります。人々が目にする、普通の動物に置き換わるんですね。

この後、朝鮮半島を経由して中国からの亡命者や、北方騎馬民族が渡ってきます。彼らは鉄器を携えていました。その先進の技術で、先住の弥生民を制圧し、小国家を形成していきます。謎に包まれた邪馬台国から、さらに天皇家による統一国家形成の幕開けです。

この頃になって、ようやく文字文化が渡来し、歴史が始まりますが、日本人のDNAにはそれ以前のルーツも、きっちりと残されています。


海人族の血を色濃く残した清盛が、公家社会を打ち倒して政権を握り、次に狙ったものは海外雄飛でした。が、彼の寿命はそれを許してくれませんでした。

その後の鎌倉政権は、農耕にこだわり、海外には目を背けます。室町幕府になって、足利義満が交易の利益に目をつけますが、その後は政治の混乱で内向きになります。そして信長、秀吉が海外雄飛を目論見ますが、清盛が交易を志向したのに対し、信長は別としても、秀吉は土地を求めました。それが朝鮮侵略の失敗に繋がります。

失敗に懲りた徳川政権は、鎌倉幕府の行き方を見習って、国内の農耕文化に徹します。

そして明治、海外雄飛を求めた龍馬が現れ、日本は通商国家として遅れて近代に参加しました。

今、殆どの企業は海外に目を向けています。太古の海人の故郷である海に向かって、通商範囲を拡大しています。TPPなどというのは、清盛、信長、龍馬と受け継がれた海人族のロマンを花開かせるのに、避けては通れない関門でしょう。

もう一度、村社会に戻って内部融和に徹するか、ロマンを追って海に戻るか、今はそんな議論が繰り返されています。清盛の生き方を自分のものにするのには、少々時代が経ちすぎてはいますが、司馬遼太郎の言う「この国のかたち」を考えてみるには、良い機会ではないでしょうか。

もっとも、NHKが、何を意図して清盛を取り上げたかはわかりません。大河ドラマの誘致には、全国各地からあまたの申し入れがあるようで、今回は瀬戸内海の沿岸地域や、和歌山県などが中心になりそうですね。いずれにせよ、源平、戦国、維新という3つの時代に人気があるようで、それに地域性を交えて取り上げる時代と地方が先に選ばれるのでしょう。どういう描き方をするのか、期待して待っています。

なお、今回は原作が明示されていませんので、とりあえずは村上元三の「平清盛」をベースに話を進めてみたいと思います。

最近のNHKは商売熱心で、そのうち、あらすじ本を出して儲ける魂胆でしょうね。(笑)来年も「新平家物語と違いすぎる」と、テレビを見なくなる人が出るかもしれません。

清盛がこの世に生を受けた平安末期、日本の社会はどうなっていたのでしょうか。

武士階級が源氏と平家の二大勢力に分かれていった背景はなんでしょうか。

今回はそこらあたりについて、愚考というか…あて推量を試みます。

平安期の長い平和が続くと、奈良朝から続いた律令制度にゆるみが出てきます。あちこちで法令に背き、年貢を上納しないものが出始めていました。脱税、節税、利益隠し…、

現代同様の小細工が始まり、それに狎れてくると堂々と税を拒否するものが現れます。

当然、国家の税制が破綻を始め、藤原氏を中心とする宮廷貴族が困窮を始めていました。中央から遠いところほど、その傾向が強く現れ、瀬戸内では海賊が上納される米や金品を奪い、東北では藤原氏の一族が独立国的経営を始め、関東では平将門の乱に象徴されるように、中央政府に税を納めないものが随所に現れてきます。

治安も乱れてきますから、税も途中で略奪されてしまう事件が頻発していました。

更に、寺社が勢力を拡大し、これまた独立国的な勢力圏を形成します。

国家を維持していくためには、相応な武力が必要なのですが、平和に馴れた公卿たちは、武力の整備を怠り、備えが全くありません。右大将、左大将などという官位は持ちますが、武芸の心得もなく、武器の整備も出来ていません。これを「シビリアン・コントロールが良くできていた」ということも出来ますが、将軍という位に座る公卿は

「麻呂は戦のことには素人じゃ。戦などは下々のすることでおじゃる」

「平将門? 藤原純友? 知らぬ。麻呂には関係ないことでおじゃる」

などと言い、その下の兵部、刑部の役人は

「罪を犯す前に、犯しますなどという者はいない。犯人などはわからぬ」

などと嘯いて、なんら手を打ちません。文明が成熟し、衰退期に入ると、いつの時代でも人間の発想は同じです。永田町に巣食う貴族(国会議員)には、世の中のことより、宮廷(院)の勢力争いのほうが大事なのです。帝(ノダ)よりも法皇(オザワ)に尻尾を振る者たちが多数派である現代と、大差ないと考えたらよさそうです。

上級の公卿たちは、近畿圏から上納される税金を独り占めし、経済、民政のことなど見向きもしません。下級貴族や官僚たちも、地方からの税収が足りない分は、町衆から余計に上納金を取り上げて、自分たちの生活を守ります。

一方、地方では中央政府が当てになりませんから、自衛組織が出来てきます。自衛防犯組織のようなものが、いつしか武器を持ち、自衛隊化していきます。戦国時代初期となんら変わることはありません。そういう、自衛武装集団を束ねるもの達を、武士と呼びました。

武士は、相互に合従連衡を繰り返し、いつか源氏という一派と、平氏という一派にまとまっていきます。この組織が中央政権に進出し、そして取り込まれ、徐々に発言権を増していきました。政府にとって見れば、税収の安定確保のために雇った税務署員のようなものですが、彼らは、彼らなりに増収の道を探ります。

源氏は、八幡太郎義家が奥州征伐をして以来、関東から北に勢力圏を広げます。

平氏は、瀬戸内の海賊を平らげたり、九州の熊襲征伐などで西に勢力を広げます。

陸の源氏、海の平氏という通り、東に向かうには船が使えませんから騎馬軍団を中心とする源氏の勢力が、多くの牧を抱えて馬を育て、勢力の増強を図ります。この時代、馬というのは戦車に相当するほどの武器です。彼らは米による産業振興を図るべく、新田開発や治水などの技術を身につけていきました。当時の東日本は森林と野原しかなかったといっても過言ではありません。特に、日本アルプスの山岳地帯は、物流も、情報も阻んでいました。未開地…この言葉がぴったりでしょうね。アメリカ開拓史は西部劇ですが、平安末期の日本では東部劇だったでしょう。長野県の佐久地方は、いまでこそ「佐久」と書きますが、そもそもの語源は「柵」です。蝦夷との境界線にあたり、馬を育てるための牧場が盆地のいたるところに広がっていたようです。

一方の西日本は、邪馬台国以来の水田が整備され、瀬戸内海という基幹交通網も発達していましたから、文化的には京の都と変わりなく高いレベルにありました。いや、むしろ九州や瀬戸内のほうが進んでいたかもしれません。この当時の先進文化は、東シナ海、朝鮮半島を経由してもたらされますから、経済も発展し豊かな生活をするものが多かったと思われます。が、財政に窮した貴族の中央政権は「絞れるだけ絞る」という税制を押し付けてきますから、これまた武装集団で自衛します。歴史書では「海賊」と呼ばれますが、正しくは瀬戸内海上自衛隊でしょうね。朝廷から見れば、命令を聞かない奴らですから「賊」ですが、地元から見たら正義の味方、自衛組織なのです。

日本の歴史物を読んでいて、いつも思うのですが、「天下分け目」といわれる戦いは、常に「東西対決」になります。源平合戦、関が原、明治維新…英雄たちが活躍する物語の最後は、必ず東西対決で終わりを告げます。まぁ、今では巨人・阪神戦でしょうか(笑)


少し脱線して、日本の東西について触れてみたいと思います。

私たちは、単一言語としての日本語を使っているつもりですが、日本語は大きく分けて、二系統に分かれていました。標準語なるものが導入されたのは、僅か150年前の明治維新以降のことです。が、150年たっても、発音は関西弁と関東弁で違います。文字にすれば全く同じ言葉でも、発音すると違うんです。これは、明らかに差別を生みます。差別を生めば、それは成長して党派を生みます。党派の対立を生みます。身内、ヨソモンと、時に血なまぐさい事件を引き起こします。

その境界線がどこか? 山なんですねぇ。徒歩では越えがたいほど急峻な山、中部山岳地帯が、東西の境界として、厳然と立ちはだかっていたのです。

今は日本アルプスと総称しますが北、中央、南アルプス、この山塊を境として、平安期の文化は東西が大きく異なりました。言葉が違いますから文化が違って当然です。

立山連峰から穂高連峰、そして中央アルプスの木曽駒ケ岳を越えて浜松に伸びる山塊、これが言語上の東西境界線です。そうですね、フォッサマグナ、50Hz,60Hzの境界線にも似た線です。具体的な言葉の例を挙げれば、紙面が足りませんので省略しますが、卑近な例を挙げれば買うという言葉を「こうた」というのが西で「かった」というのが東です。雪が降って「白う」なるのが西で、「白く」なるのが東です。送り仮名が違うんですね。

言葉だけでなく、餅の形まで違うのは皆さんご存知の通りで、西の丸餅に対して、東は角餅です。味も、西の薄味、東の濃い味・・・違うんです。

現代は交通も、情報も発達して、東西の文化差は殆どなくなりつつありますが、それでも方言の中では寿命の長いものもあります。関西弁などは、その際たるもので、淘汰されるどころか、吉本興業を通じて復興の兆しがありますね。東北や九州の方言が衰退する代わりに、関西圏の方言がバラエティー番組では主役にのし上がってきました。その勢いに乗って、中国四国圏の「…じゃけんのぅ」なども勢いを盛り返しています。


京の公家衆への信頼が落ちるにつけて、東の源氏、西の平家に対する庶民の期待が盛り上がってきました。「公家ではダメだ、武士でなくてはいけない」と政治不信が徐々に高まってきます。その意味では幕末の「幕府ではダメだ。尊皇攘夷だ」という熱気にも似ていますし、政権交代マニフェストに踊った現代にも似ています。踊った結果がどうなったか…

混乱と混迷を生みました。現代も混迷を続けていますから…理解しやすいですよね。

日本に限らず、アラブの春などともてはやされている国々も、しばらくは混乱状態が続きますね。民衆の熱気というものは暴発しますが落としどころを知りません。

この混乱を収めるのは「力」です。武力でした。武力を持つものが台頭し、淘汰されて、源氏と平家という二大政党に収斂していきます。そして、万年野党としての寺社勢力が絡み、反対運動だけを繰り返します。寺社は宗教団体というよりは利権集団といったほうが適当な組織ですから、互いに利権を巡って争います。国家の安定と民衆の生活を安定させようなどという、仏法本来の理想などはかなぐり捨てて、自らの勢力の維持拡大だけを目的にした軍事組織といっても過言ではありません。むしろ、オーム心理教に近い集団と見たほうが良いかもしれませんね。毒ガスはまきませんが、「神輿振り」などという示威行為は、デモというより、暴動に近い行動でした。

政権はガタガタ、官僚は堕落、宗教は我利我利亡者の集団ですから、民衆は頼るところが武士という軍事組織だけになります。そうなれば…クーデターしかなくなります。

まずは清盛に率いられた平氏が政権を奪い、それを頼朝が奪い取って、鎌倉幕府という軍事政府を作りました。今でこそ、カダフィーやミャンマーの軍事組織は「非民主的」嫌われていますが、この物語の当時は、平家も源氏も、民衆から民主的救世主として大歓迎を受けた軍事政権でした。

「平氏にあらずんば人にあらず」と嘯いたのは公家(藤原氏)出身の平時忠ですが、平氏は京都に拠点を置いたために、公家文化の悪いところを受け継いで没落しました。清盛が描いた通り、福原に移って、海と親しんでいたら歴史が変わったでしょう。鎌倉に政庁を移した頼朝、江戸に移った家康、明治政府、いずれも賢明な選択でした。