いざ鎌倉 第38回 合戦前夜

作 文聞亭笑一

先週はナレーションでも言っていましたが「6年間のできごとを一晩で・・・」辿りました。

小学生だった善哉が、高校生ほどに成長して園城寺へと修行に出かけます。

公曉を名乗るのは園城寺へ入ってからのことですが、ドラマでは鎌倉を発つときから公曉でしたね。

ところで公曉は<くぎょう>とよむものだと思っていたら<こうぎょう>と読んでいました。

調べてみたら・・・最近は<こうぎょう>と読むのが主流のようです。

くぎょうは「苦行」に混同しやすく、公曉の行為を貶めるための読み方ではないか・・・という意見もあるようです。

いよいよ1211年になりました。

北条義時家のゴタゴタ

この年になり義時の息子たちに問題が起きます。

まずは長男の泰時に離婚問題が持ち上がります。

泰時に問題があったのではなく、妻が子どものできないのを苦にして離婚を言い出します。

泰時の妻は、父義時の盟友・三浦義村の娘です。

いわば、北条と三浦をつなぎ止める絆の役割ですから、離縁は大きな政治問題にもなります。

御家人たちから観ると、北条と三浦の絆が切れる・・・細くなる・・・のは好都合で、自分たちが権力の座に近づくチャンスでもあります。

この当時に週刊誌はありませんし、瓦版もありませんが、噂話は「千里を駈ける」と言うほどに早く広がります。

更に、憶測が憶測を呼んで大事件にします。

針小棒大・・・針のように小さなことを、丸太ん棒ほどに大きくして問題視する。

安倍国葬問題などはその典型です。

鎌倉の野党にとって、与党の足並みの乱れは嬉しい限りです。

この問題は北条、三浦の双方の合意で離婚が成立します。

泰時の妻が産後の肥立ちが悪かったことからノイローゼ症状になっていましたから、療養の意味でも離婚になりました。

次に起きたのが次男・朝時の女房部屋侵入事件です。

朝時は義時の二番目の妻(比企の娘、頼朝の妾)との間にできた子ですが、出生の時期が微妙でしたから・・・義時の子か、それとも頼朝の子か・・・微妙な問題も抱えます。

この朝時が実朝の妻・坊門姫のおつきの女官に恋をし、付け文などをしていましたが、一向にラチがあかないので・・・と実力行使の夜這いを仕掛けました。

残念ながら・・・というのか、当然のこととして護衛に見つかり捕縛されます。

田舎の百姓家に夜這いをするのとは訳が違います。

妻の寝所が荒らされたと実朝は烈火のごとく怒りますが、義時は朝時に対する実朝の裁可の出る前に駿河へと流罪にしてしまいます。

どちらの事件も義時政権にとってはスキャンダルで、反北条機運を燃え上がらせます。

そんな折に、大江広元の兄で、京都所司代というか・・・朝廷外交責任者の中原親能が亡くなりました。

鎌倉殿の13人は5人になりました。残るは和田義盛、八田知家、三善康信、大江広元、北条義時の5人です。

泉の乱

鎌倉からほど近い場所に横浜市泉区があります。

この地に屋敷を構えていたのが信濃に所領を持つ泉親衡という御家人です。

信濃源氏の分枝で、上田市近郊の小泉の里が本拠地です。

この泉親衡が北条家の足並みの乱れを観て、謀叛を計画します。

二代将軍・頼家の忘れ形見である千寿丸を見つけてきて、4代将軍として擁立する計画を立てます。

そこから隠密理に多数派工作に掛かります。

当初は在郷御家人を説得し、一本釣りで味方を集めますが、好結果に段々と大胆になって鎌倉での多数派工作を始めるようになりました。

この工作を担当したのは泉親衡の家人・青栗八郎と、その弟・僧の安念です。

反北条を固め、さぁいよいよ・・・と中間派に手を出したところで発覚しました。

千葉成胤を仲間に引き入れようとしたところで「謀反人」と挙げられ、組み伏せられ、政所に突き出されました。

取り調べの結果、この時すでに330人にも及ぶ御家人たちが同心していたと言いますから、反北条勢力の多さに義時も仰天したと言います。

さっそく侍所に招集が掛かり、同心した者たちは捕縛されます。

この時、侍所の別当・和田義盛は上総にいて不在でした。これも、侍所の動きを速くしました。

なにしろ、和田義盛の息子二人と甥も、検挙された者の中に入っています。

この陰謀に和田義盛が加わっていたとは思えません。

実朝は和田義盛を父親のように慕っていますし、義盛も実朝に戦記物語をするのを楽しみにしていました。

ただ、息子たちは実朝から重用されてはいません。それは不満だったでしょうね。

和田義盛の甥・和田胤長は首謀者の一人として逮捕されています。

息子の義直、義重も同調者として逮捕されています。

上総から戻った和田義盛は政所には無断で、将軍実朝に息子たちの赦免を願い出ます。

これに・・・情に弱い実朝はあっさりと受諾し、息子二人を赦免してしまいました。

味を占めたのか、翌日は一族郎党を引き連れて御所に参内し、甥の胤長の赦免を求めます。

これには義時、広元の政所が黙っていません。

和田勢の目の前で胤長を辱め、東北へと流罪を執行してしまいます。

これは和田一族への挑発ですね。和田合戦への幕開けです。

この時、義時は駿河の流罪地にいた息子の朝時を隠密理に鎌倉に呼び戻しています。

和田勢に捕縛されて、政治的取引材料にされないようにとの配慮です。

泉の乱の主犯?というか、計画の張本人・泉親衡は事件の発覚を知るや、鎌倉街道を北に走り、川越辺りに潜伏します。

その後の和田合戦などでの混乱に乗じて生き延び、80余才の余命を全うしたと言います。

ただ、泉氏の本拠地であった信濃・小泉の庄、塩田平は没収され、北条泰時の所領とされます。

その後も北条家の別荘として栄え、「信州の鎌倉」などとも呼ばれました。

別所温泉には常楽寺の北向き観音が有名ですし、塩田平の安楽寺には八画形三重塔など鎌倉文化の名残が残ります。

さらに、泰時は拝領の御礼にと室賀の庄を善光寺に寄進しています。