いざ鎌倉!! 第6回 安房へ

文聞亭笑一

石橋山の合戦から、いわゆる「源平合戦」が始まります。

戦いの当初から源氏は白旗、平家は赤旗を掲げます。

現代にまで残る、いわゆる紅白戦の始まりです。映画やドラマに よって旗のデザインが微妙に変わりますが

源氏・・・白旗に赤丸

平家・・・赤旗に金丸

敵味方が分かりやすくて、単純明快です。

この源氏の旗が・・・後に日本の国旗の原型になっていきます。

北条宗時の討死

先週の終盤に、ドラマの主人公・義時の兄である宗時が伊東の家人によって討たれてしまいました。

あの手口は・・・どう見ても忍者の手口ですね。

源平合戦の頃に忍者がいたのか?

 忍者らしき戦い方をした者の記録はないようですがこの地域、後の小田原北条家(後北条)には風魔忍者と言う忍びの集団がありました。

足柄下郡の出身とされる風魔小太郎を頭とする戦国忍者で、伊賀・甲賀に負けず劣らずの技量を発揮します。

伊豆や箱根の山中で、狩猟を生業にしていた人々なら忍者モドキの働きはできたのかもしれません。

宗時は甲斐の武田信義の援軍を頼みに向かう途中でしたが、武田信義は頼朝を「本家」と思っていません。

そういう点で立場は木曽義仲と同じです。

条件さえ整えば自分が源氏の棟梁として平家討伐の軍を率いる気でいます。

歴史に「if」はありませんが、もしも武田軍が援軍に出てきて、大庭を中心とする平家を破ったら・・・武田信義が源氏の大将として都に攻め上ることになったかもしれません。

全くの余談ですが、この武田信義の息子に一条忠頼がいます。

その忠頼の傍流の傍流が我が家のルーツだと家系図に書いてありますが・・・真偽のほどは分かりません。

頼朝の逃避行

300騎と言われた頼朝の軍勢ですが、最初の手合わせで敗れ、大半が逃げだします。

戦場の近くにいたら残党狩りで討ち取られてしまいますから、思い思いにバラバラになって逃げます。

結局、頼朝の周りに残ったのは土肥実平など戦場付近の小田原、湯河原、箱根山に土地勘のある者たちだけ8騎でした。

発見されたら最後です。…が、発見されます。

が、曲者・梶原景時の思惑で救われることになります。

この辺りのやり取りを、今回はどう描きますかね。

史料として残っているものとて、所詮は小説なのです。

テレビの筋書きを楽しませていただきましょう。

土肥実平

土肥・・・と書きますから、てっきり伊豆の西海岸、土肥金山や土肥温泉のある辺りの豪族だと思っていました。

しかし本拠地は湯河原だったんですね。

石橋山の戦場辺りの土地勘が最もある武将です。

北条や佐々木ではなく、そういう土肥を手元に残したという判断が頼朝を救いました。

残党狩りが終わるまで、頼朝や実平たちは「しとどの窟屋」と呼ばれる洞窟に隠れ住みます。

これを支えたのが実平の女房と村人たちです。

後に頼朝はこの時の村人たちの働きを称えて「姓」を贈って感謝の気持ちを示しています。

窟屋を木の枝や柴などで偽装し、隠してくれた村人には・・・

青木の姓

実平の女房を助け、三度の食料を運んでくれたものに・・・

五味の姓

付近の見張りや偵察を行い、実平の連絡係として働いた者に・・・

御守の姓

当時の平民(農民、漁民)は「姓」などを名乗ることなどない時代ですから相当な名誉だったでしょうね。勲章代わりです。

今回の物語とは直接関係ありませんが、この土肥家が毛利家三兄弟の一人・小早川家の家祖だと知って意外に思いました。

鎌倉幕府と瀬戸内・・・繋がりません。

調べてみると、源平合戦で西へ進軍するにあたり、占領地支配を任されていたのが土肥実平でした。

軍事顧問として義経を支える役割が梶原景時、支配地の内政を整えるのが土肥実平と言うコンビで、屋島から壇ノ浦へと展開していきました。

実平は備前、備中、備後の守護、さらに長門、周防の守護と西国支配の中心を担うことになり本拠地を安芸・沼田庄に置いています。

小早川を名乗ったのは息子の遠平です。

小田原の早川の庄を拝領して「子早川」と名乗ります。

「小」は偉大なる親父への遠慮ですかね。

とにもかくにも、この時の土肥実平の働きがなければ頼朝の命はありませんでした。

土肥実平と梶原景時・・・、石橋山の前から談合して…出来レースだったかもしれません。

安房へ

残党狩りが終わるのを待って、土肥実平は真鶴港から船を出し、海上を安房へと逃げます。

始めから安房を目指したのか、それとも三浦半島を目指すつもりが、三浦党の不利を知ってさらに先に行ったのか・・・そのあたりが分かりません。

もし梶原から情報があれば、三浦党は戦闘中で不利な状況にあることが分かっていたことになり、真っ直ぐに東京湾を横切ります。

安房小湊に上陸した・・・と云いますが、外房の鴨川・仁右衛門島には「頼朝の隠れ家」があります。

内房に上陸して陸路を辿ったか、海路を真っ直ぐ進んだのか、そのあたりが良く分かりませんが、ともかく房総半島の先端に落ち着きます。

秩父の畠山重忠に攻められて、本拠の衣笠城から逃げ出した三浦一党も房総に逃げだし、合流してきます。

いや、逃げたのではありません、「転進」です。

後の大日本帝国陸軍が、逃げることをそう言いました。