いざ鎌倉 第20回 奥州征伐

文聞亭笑一

今回登場する女たちはキツいタイプが多いですねぇ(笑)。

女同士の確執を描く都合上なのかもしれませんが、静御前ですら男勝りの・・・気の強い女に描かれています。

京女、手弱女・・・という先入観が、そもそも間違っていたのかもしれません。

頼朝の前で「恋しい、恋しい義経様・・・」と舞い、歌うのですから気が強くなかったらできる事ではありませんね。

まぁ、北条政子を基準としたらみんな強い女になりますねぇ。

かつて日本史上の三悪女の一人に選ばれた政子です。

三悪女・・・ご存じですか?

北条政子・・・頼朝の死後、尼将軍として朝廷に対抗し、上皇以下を島流しにした悪人(?)。

日野富子・・・足利将軍家・御台所として私利私欲に走り、応仁の大乱から戦国乱世を招いた。

淀君茶々・・・我が子かわいさに秀吉を狂わせ、さらには豊臣家と家臣団を滅亡させた。

3人はいずれも「個性豊かな女丈夫」な人生を送った方々です。

男尊女卑や明治の皇国史観からすれば悪女になるのでしょうが、3人とも「時代を変えた」人たちです。

政子の演説で始まった承久の乱により「武士の世」が確定します。

富子の放蕩、我が儘によって国政が乱れ応仁の乱「戦国時代」が始まります。

茶々の大坂の陣で戦国気風が一掃され「江戸時代」が始まります。

鎌倉時代から江戸時代までを「武士の世」と言いますが、戦場における武将たちの活躍もさることながら、政治の場や内助で女性の活躍が目立つ時代でもあります。

静の舞い

吉野で捕縛された静は母の磯禅師と共に鎌倉に護送されます。

「静の舞いが見たい」と興味津々だったのは政子で、頼朝はそれほど興味がなかったと言いますが、いざ舞いが始まるとその文句、歌詞に頼朝が激怒します。

それをなだめたのが政子だとか、小説によってこの場面はいろいろに脚色されます。

さらに、静が義経の子を身ごもっていることを見抜き、「男なら殺せ」と命じたのが頼朝だとか、今度の物語は子供を殺す話が多くて・・・気が重くなります。

奥州藤原家

奥州平泉の藤原三代の栄華は、今となれば金色堂を残すのみですが、金をふんだんに使った豪華絢爛な金色堂を見るだけでも、当時を偲ぶことができます。

藤原三代はこの地に仏の王国を作ろうとしてきました。

マルコポーロが「黄金の国ジパング」と母国に報告したのは平泉のことではないかと言われています。

初代・清衡が中尊寺を建立、二代目・基衡が毛越寺を建立、そして三代目・秀衡が無量光院を建立し、北の仏国土と呼ばれる大都会を建設していました。

交易の道は北は外ヶ浜から蝦夷、アムール川に達し、南は白河の関に続きます。

経済力の根源は、豊富な砂金を活用した外国との交易による商業利益だったようですね。

奥州馬が騎馬戦力として優秀なのも、大型のアラブ種が入ってきたためでしょう。

日本の在来種は一回り小さい小型馬でした。

藤原氏は現在の東北6県を傘下に収めています。

そして豊富な砂金と優秀な奥州馬の産地です。

兵力も15万騎と推定されて鎌倉殿の関東の兵力と拮抗します。

戦力が互角の上に、大政治家の秀衡がいて、その奥州軍を義経が率いるとなると・・・うかつに戦いを仕掛けられません。

義経と共に戦ったことのある鎌倉武士団は腰が引けてしまいます。

朝廷を使って「謀反人義経を出せ!」と院から命じてもらい、揺さぶりを掛けるしか手がありません。

頼朝は手を変え、品を変、朝廷を使った政治工作を仕掛けますが、秀衡は「のれんに腕押し」「柳に風」「蛙の顔に小水」と受け流します。

義経がいるとも、いないとも答えないのです。

「秀衡の目の黒いうちは奥州に手が出せぬ」 これが頼朝の当座の結論でした。

その秀衡ですがすでに66歳と高齢です。問題は後継者です。息子が6人います。

長男・国衡、次男・泰衡、三男・忠衡、四男・高衡、五男・通衡、六男・頼衡

順当ならば長男が家督を受け継ぐのですが、長男は妾腹、次男を産んだのが公家の娘というので泰衡が後継者になります。

この「ねじれ」が、ほかの弟たちも巻き込んで兄弟の不和に繋がりました。

秀衡もそのことを心配し、義経を後継者に指名して一族の結束、団結を図ろうとしますが、泰衡が承知しません。むしろライバル視してしまいます。

1188年10月、東北の巨星・藤原秀衡が逝去します。

ここから藤原兄弟の確執が表面化します。

主流派の次男、四男 VS 反主流派、義経擁立派の長男、3,5,6男に分かれます。

衣川の館

1189年に入り奥州藤原家の不協和音、内乱が鎌倉にも漏れてくるようになりました。

泰衡が義経贔屓で、父の遺言を盾に義経擁立を主張する6男・清衡を暗殺してしまいます。

さらには義経の手紙を持った僧が捕縛され、その内容から泰衡との確執がうかがえて、義経が平泉に居づらくなっている状況も見えてきました。

「奥州は内側から割れる」と読んだ頼朝は奥州征伐の軍を仕掛けます。

奥州軍15万とみて、それに倍する30万とも、50万とも言われる軍勢を集め始めます。

この数字・・・一桁多いと思いますね。

ともかく大軍です。関東だけではなく西日本にも動員令を掛けます。

この動きに恐れをなしたのが泰衡です。

この人は武士と言うより公家風の人で、平氏を滅ぼしてしまった平宗盛に似ています。

「義経の首を差し出せば、鎌倉殿が許してくれるだろう」

と考えて、500人の兵が衣川の義経の館を襲います。

油断していたのか、それとも覚悟していたのか、義経主従は20人ほどの手勢ですから防ぎきれません。

有名な「弁慶の立ち往生」は、義経とその妻子が自決するまでの時間稼ぎでした。

夏草や 兵(つわもの)どもの 夢の跡 ・・・後に芭蕉が一句を捧げます。

義経の首は鎌倉に届けられますが、委細構わず、頼朝は兵を北に進めます。

東北を制圧し全国制覇を成し遂げるという目的に向かって手を緩めません。

京都の朝廷と対抗するためには後顧の憂いである東北を鎮圧しておく必要があります。

また、恩賞のありなしで動いている鎌倉武士たちに与えるためにも広大な土地が必要になります。

プーチンがウクライナをほしがるように、頼朝にとって東北6県は喉から手が出るほどに欲しい領土です。

御家人たちの武力を意のままに使おうとすれば、飴と鞭、「恩賞と法度」の使い分けが大事です。

大江広元など頼朝のブレーンが暗躍します。