乱に咲く花 50 花燃ゆ

文聞亭笑一

いよいよ今年の大河も千秋楽・・・今回が最終回です。華やかな幕切れのようです。

吉田松陰の妹という立場から、多くの攘夷志士たちと交流し、激動の中でも自分の想いに忠実に人生を貫いてきた女の一代記でしたね。今年のテーマは「志」であったか…と今頃思い当たりました。青年よ大志を抱け・・・北大に銅像として残るクラーク博士もこの頃来日したのでしょう。

美和さん改め美和子が楫取素彦と再婚したのは明治16年、美和子41歳の時でした。

が、その翌年、明治17年に楫取は群馬県令を辞任しています。何があったのでしょうか。

群馬事件(ぐんまじけん)は、1884年(明治17年)5月に群馬県北甘楽郡で起こった自由党急進派と農民による自由民権運動の激化事件である。 明治15年からの松方デフレにより全国的に農民は困窮し、負債で苦しんでいた。群馬県北甘楽郡でも30余の村の村民が県へ陳情するほどであった。
                                                (Wikipedia)

楫取素彦は、この事件の責任を取ったのではないかと推察します。

自由民権運動については以前にも触れましたが、薩長勢力中心の中央政府からはじき出された板垣退助や江藤新平などが議会の設置を求めて起こした運動です。江藤の佐賀の乱や、西郷による西南戦争などで一時下火になりましたが、明治14年の政変で大隈重信一派も中央政府から締め出され、薩長色がより鮮明になるのと合わせて、再度の盛り上がりを見せています。

主義主張というよりは派閥の勢力争いのようなもので、現代の永田町の与野党攻防に似ています。薩長土肥の主流派が仲間割れをして、互いに権力闘争をしているといって過言ではないでしょう。明治15年には自由党総裁の板垣退助が岐阜で暴漢に襲われ「板垣死すとも自由は死せず」と名言を吐いています。

この板垣自由党というのも、現代の民主党に似て「政策集団」というよりは「不満分子の寄合所帯」という性格を持っていました。党首の板垣は主流派の土佐・官軍出身ですが、党員の多くは旧幕府旗本や賊軍藩と言われた諸藩の者たちが多く含まれています。意見が合うのは「反政府」の旗印で、政見、政策、ましてや志が一致しているわけではありません。

まぁ、民主党と共産党が選挙協力するようなものです。

群馬県では、高崎藩は賊軍とされた藩ですし、前橋藩も賊軍とまでは言われていませんが、日和見藩とか、曖昧藩と呼ばれた過去がありますから、士族たちは政府から優遇されることはありません。むしろ政府に睨まれているという立場ですね。そうなれば…当然ですが、板垣自由党に傾斜していきます。多くの自由党員たちが反政府運動を展開していました。

引用した部分は解説が要りますね。

松方デフレについては先週号で触れたとおり、財政再建のための金融引き締めです。通貨量を強力に、急激に絞ったために経済が縮小してしまいました。これに世界大不況が重なって、群馬県など養蚕地帯は生糸相場の大暴落が起きます。

この時代に養蚕が盛んであったのは群馬県、長野県を中心に山梨県、神奈川県、秩父地方、筑波地方などです。何れも山間部の水利の便が悪い農村で、コメの代わりに雑穀や蕎麦を主食にしていたような地方でした。雑穀というのは五穀などとも言われて、現代では健康食として注目されていますが、麦、豆、粟(アワ)黍(キビ)、稗(ヒエ)を指します。(五穀には米も入る)

山間部の農家が養蚕に熱心になったのには、当時の反収(10a当たり収入)が養蚕で格段に多く得られたからです。主要作物の反収を比べてみますと
米 10円13銭
大豆など穀類 5円15銭
養蚕 15円19銭でした。
だから農家は雑穀などの畑を桑畑に転換し、水田さえも桑畑に転換する例もありました。
(信州人の長寿を考えるより引用)

要するに…儲かるのです。だから借金してでも山の傾斜地の畑を桑畑に切り替えます。蚕専用の飼育棟である蚕室を建てます。養蚕に必要な設備、機械器具、備品、消耗品も買い揃えなくてはなりません。切り替えの期間は収入も食料もありませんから、米を前借して食いつなぎます。明治5年ごろに切り替えた人は借金が返せて、しかも蓄えができて裕福になりましたが、返済途上や切り替え時期にこの大不況に遭遇した農家は悲惨でした。夜逃げもままならず、田畑を売って小作人になるしかありません。

「政府が奨励したというのに…」と不満が貯まり、反政府の機運が盛り上がります。この不満のエネルギーというのは貧困が続いている時よりも、貧困から少し快方に向かった後の方が強力に出るようです。少しでも良い目をしてしまったら、諦めて元に戻って我慢するということができなくなります。極貧国の北朝鮮では暴動が起きず、途上国の中東で反政府の戦禍が絶えないのは、そういう事かもしれません。

これを党勢拡大、政府転覆のチャンスと見たのが自由党過激派でした。自由党群馬県連とでも言いましょうか、かれらは農民蜂起を画策し、軍の駐屯地を襲って武器を手に入れ、政府要人の暗殺計画を立てます。彼らが狙ったのは、中山道鉄道の開通式の行われる予定の高崎駅でした。この式典には明治天皇はじめ政府要人が多数参加します。天皇は別として政府の主だった者たちを一網打尽にしてしまおうという大規模テロ計画ですね。

しかしこの計画は事前に漏れ、開通式典が延期になって不発に終わります。首謀者たちは姿をくらまして一件落着に見えましたが…煽動家に焚き付けられて燃え上がってしまった転落農民たちの不満の火はますます燃え盛ります。そしてついに、妙義山麓に集結、松井田警察署襲撃という事件を引き起こしてしまいました。これが群馬事件です。そしてこの火は秩父事件、加波山事件へと飛び火していきます。

この事件と楫取の県令辞任が一致するかどうか・・・不明にしてわかりません。

ただ、養蚕というのがいかに儲かるビジネスだったかというのは、引用した文章に改めて思い知らされました。私の生家も信州で養蚕をしていましたが、私などもお蚕様のお陰で学校に行けたんですねぇ。中流の生活ができたんですねぇ。米の1,5倍、豆や野菜の3倍の収益というのは、実に魅惑的です。ついでに、神奈川県の北部も明治期は養蚕が盛んであったことも、郷土史研究で知って驚きました。横浜に外国人が沢山駐在し、ヨーロッパの養蚕技術を直伝していたようです。その後、東京・横浜が大消費地として成長するに従い、相場に左右される桑・養蚕よりも、安定して儲かる果樹園へと転換していきます。川崎市の北部は梨、桃の生産量で日本一だった時期もあります。

もう一つついでに…。群馬事件の後に起きた秩父事件ですが、秩父では群馬以上に深刻でした。この地方は旧幕時代に幕府の天領であったこともあり、輸出の仕向け先がフランスなどヨーロッパに偏っていました。ヨーロッパの生糸相場はフランスのリヨン市場で決まります。このリヨンが世界不況の火付け役になりましたから、暴落の程度が違います。

その意味ではアメリカへの直輸出を進めていた楫取の政策は、群馬県養蚕農家の安全弁として働きました。その政策に乗った阿久沢などの商社も英断でしたね。被害が小さく済みました。

その後の楫取と美和ですが・・・

その後半の二人の人生を、年表風に書いてみます。

1887(明治20年) 楫取素彦 男爵の位を授かる

1890(明治23年) 第一回帝国議会開会 楫取は貴族院議員に就任

1893(明治26年) 楫取一家は山口県防府に転居

1897(明治30年) 楫取が貞宮内親王の御養育係主任を命じられる。

 美和子も貞宮御殿に出仕 内親王の養育に当たる

1899(明治32年) 貞宮夭逝(ようせい)

1912(大正元年)  楫取素彦が死去 83歳

1921(大正10年) 楫取美和子死去 78歳

男爵というのは「華族」に当たります。明治期も身分制度が形を変えて残っており、最上位に皇族、そして華族がいて、士族がいて、平民という序列ですね。その平民も納税者と非納税者で選挙権のありなしの差がありました。士農工商が皇華士富貧と並び変わっただけとも言えます。

人間というのはどうも・・・位が好きな動物らしく、組織にあっても部長・課長・係長・主任などと序列を付けます。士族に当たる者を管理職と呼び、平民を組合員などと呼びます。まぁ役割の呼称ですから身分とは違うかもしれませんが、それによって報酬に差がありますから・・・身分に近い響きを持ちますよね。「…なら・・・らしくしろ」などと言ったり、言われたりしましたねぇ。

その延長でしょうか、町内会にも、老人会にまでも序列があって、その感覚を身に付けるまでが一苦労です。「だから入りたくないんだ」という気持ちもわかりますが、改革は中からやった方が早道です。外からいくら声を張り上げても、相手のガードを固くするだけです。

NHKドラマ「花燃ゆ「が終わりましたので、「乱に咲く花」は今回で終わります。

原作本のない物語で、ストーリが分からずに、右往左往して皆さんには読みにくかったと思いますが、私にとっては西南戦争から日清、日露の戦争の時代に向かう明治10年から20年代の近代史初頭を見直す良い機会になりました。とりわけ、養蚕農家に関する部分では昭和20年代の混乱の時期、自分自身の少年時代の情景が思い出され、記憶の整理ができました。

拙文との長らくのお付き合い、誠にありがとうございました。

この後は、来年のドラマ「真田丸」に関する四方山話などを紹介しつつ、来年に向かいたいと思っています。ドラマの舞台が故郷の信州から始まりますので「どこの、何を、どう描くのか」に興味津々です。地元の皆様からの情報提供をよろしくお願いいたします。